弱音は吐く

 

もう15年以上も前になります。ハノイに移住し、新しい生活を始めたころの話です。仮住まいしているゲストハウスは簡易ホテルのような一室で、20畳ぐらいのスペースにベッドと机と簡単な応接セットがあり、シャワー・トイレ付きです。5階建てのA棟、B棟2つが並んでいますが、どういうわけかA棟はもっぱらラオス、カンボジアなど近隣諸国からの学生用で、我々がいるB棟にはアメリカ人、ロシア人、ウクライナ人、日本人など遠い国の人間が入っています。窓や廊下にぶら下がっている洗濯物の数からするとどうもA棟はギュー詰めのようで多分冷房もなさそうです。昼夜を問わず騒ぎ立てる学生の大声や街頭放送などの騒音を除けばB棟はまあ住める所ではありますが、問題は食事です。キッチンがありません。

ゲストハウスのまわりは一種、門前町みたいな所です。門の脇から食堂、薬屋、電話屋、牛乳喫茶、床屋などと続いています。部屋にキッチンがないためゲストハウス住民の殆どはここの食堂を利用しているはずです。「平民飯」「迅速飯」「自選飯」などと看板を掲げた各食堂は間口、奥行きとも56メートルの小さなものですが、前の路上を占有してテーブルやイスを並べています。新宿西口のJR線路下、今はビックカメラになってしまいましたが、以前西口会館があったところから青梅街道大ガードにかけて「思い出横丁」なる焼鳥屋だとかおでん屋だとか安食堂だとかがごちゃごちゃ並んでいる一角をご存知の方も多いでしょう。その形態から別名「ハモニカ横丁」とも言うらしいです。安くてボリュームがあって私なども時々利用した方です。その「思い出横丁」は暗くなってからのサラリーマンムードですが、こちらはそこの、ちょっと、終戦後の佇まいを残す得も言われぬ雰囲気が白日の下にあり、学生たちが群がっていると想像してください。

店先に大きな台があって、その上に四角いステンレスの大鉢が20鉢ほど。炒め物の青菜、豆類、じゃがいも、たけのこ、豆腐。ぶつ切りの焼き魚、挽き肉の野菜詰め、鶏肉のカレー煮、牛肉の細切れ。赤いソーセージ、揚げ春巻きあとは何だか分からないベトナムフード。いっっっぱい並んでいます。店の女の子(本当に少女)が、ご飯を盛った大皿に客が注文するあれこれを載せてくれます。最後に「Nước!」と言って、適当な料理の汁をかけてもらうのです。これを赤や青や黄色のやたら原色系のプラスチックテーブルに運び、これまた風呂場のイスより更に小さな四角いイスに地べた近く腰かけて、かっこむわけです。もちろんその前には儀式として二重に折った塵紙(今の人はティッシュしか知らない。)で竹の箸やアルミのレンゲをきれいに拭かなくてはなりません。これが正しい猫飯の食べ方!我々は若い人たちと違い、二人で一人前、7,000ドン(約50円)も食べればタラフクです。(現在はその倍ぐらいの値段か?)

朝早く行きますと総出で仕込みをしています。料理の置き台や大鉢はきれいに拭かれ、食べ散らかしやら塵紙やらが落っこっていた店先は掃除が行き届いています。そしてその料理もおいしいことはたいへんおいしい。しかし困ったことにどの食堂のどの盛り皿も大よそ同じような味付けなのです。いいあんばいの塩かげんで、ちょっとNước mắm(日本なら醤油に相当する当地の調味料)のにおいがして、油味で。これを少なくとも昼と晩の2、毎日毎日。日本人学生の中には3か月もこれで通したというつわものがいますが、私にはとてもとても。

かく言う私も若い頃は意気盛んなものがありまして、「海外へ来てまで日本食とは何だ!その国の食事をしてこそ外国に住んでいる意味があるんじゃないか!」と強がりを言い、当時数少ない日本料理店に出入りする日本人を斜に構えて見ていたものです。しかし、ここの「学生飯」を食べ出して1週間、2週間。ある日の午後、週刊誌に載っていた日本食の写真を見ているうちに口がからからになって額から脂汗が出始めました。精神的によりも身体的に拒否反応を示したのです。とうとうその日の晩、近くの日本料理店に飛び込んでしまいました。それ以来、我慢強い妻の冷ややかな視線を浴びつつも「やせ我慢はしない、弱音は吐く」に宗旨変えしてしまいました。