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 エリア4  Khu 4 

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22)東門通り  Cửa Đông 

東門通りは長さ220m。タンロン王城の東門がこの通りの端にありましたが、フランスが王城を破壊したため、東門ももはや残っていません。フランス植民地時代は、通りは石を敷き詰め、歩道はレンガ敷きで、下水や照明を備え、街路樹が影を広げていました。かつてのタンロン王城は四角形で、北、東、西、南東、南西の5か所に門がありました。また、東門通りのほかに南門通りと北門通りがあります。

 

23)ハンボー(竹籠)通り  Hàng Bồ

 全体の長さは約270mですが、ルオン・ヴァン・カン通りを挟んで東側の短い部分と西側の長い部分から成ります。東側は以前はハンゼップ(サンダル)通りと呼ばれ、漆を塗ったもの、塗ってないもの、サイゴンスタイルのものなど様々なサンダルを売っていました。今日では針、糸、リボン、ボタンなど手芸用品が豊富です。一方、西側は昔からハンボー通りで、家内手工業の竹籠が売られていました。通りの84番地には19世紀に建てられたニャンノイ(仁内)祠があります。以前は小さな家々が集まっていましたが、裕福な人たちが一定の区域を買い取り、大きなビルが建ち並ぶようになりました。

 

24)ハンクワット(扇)通り  Hàng Quạt 

ハンクワット通りは長さ200メートル。かつて扇作りの工場や輸入した扇の商店がありました。扇作りの技術はフンイエン省ダオサー村からもたらされたものです。ハンクワット通り4番地には慰霊碑が立てられ、この地区から抗仏、抗米の戦い出征し、犠牲となった人たちの名前が刻まれています。また、43番地は今では理髪、調理、自動車修理などの技術学校となっていますが、1938年から1945年にかけて文学者グエン・バン・トーがベトナム語のラテン文字表記を教えていました。クォックグー(国語)と呼ばれ、私たちが目にしている表記です。今日、ハンクワット通りでは祭礼用具、婚礼用品、衣装、旗などが売られています。

 

25)ハンノン(菅笠)通り  Hàng Nón 

ハンノン通りは長さ216メートル。かつては多くの店はノン(パイナップルややしの葉で作った円錐形の笠)を売っていました。20世紀初めごろまではハノイの人々はノンをかぶっていましたが、1910年代までには老人を除き、少なくなってしまいました。その代り、日傘を使っています。婦人たちはぜいたくな生地の日傘を好み、ノンをかぶるのは貧しい労働者だけでした。アメリカとの戦争中(19541975年)は、ハンノン通りの人たちは兵士の帽子を作っていました。これはきっちりとプレスした紙製の帽子で、表をカーキ色で覆っていました。この帽子は北部地方ではたいへん人気がありました。現在、この通りではノンはもう売っていません。女性ファッションの店が並んでいます。

 

26)ハンガイ(麻)通り  Hàng Gai 

麻の一種の苧麻(ちょま)で編んだロープや漁網などが売られていました。ドンキンギアトゥック(東京義塾)広場から東へ延びるおよそ250mの通りです。かつては典型的な町家が軒を連ねる通りでした。今でもハンガイ通りからホアンキエム湖側のハンハイン通りまで突き抜けられる家もあり、数家族が住んでいます。今日では、ハノイ・ヴァンフック村からの絹が売られ、「絹街」とも呼ばれています。また、アートギャラリー、ミニホテル、手作りの刺繍製品や漆器などの土産物の店も多いです。特にアオザイ、水牛に乗って笛を吹く少年の木像、一柱寺や亀の塔などの刺繍画などがよく売られています。同じような品物が並べられているように見えますが、決して見飽きることはないでしょう。

 

平民飯  Cơm bình dân 

ベトナムの皆さんは朝はフォーなどを外食で簡単に済ませてしまうようです。庶民の街にはどこでも「平民飯」「迅速飯」「自選飯」「学生飯」の看板を掲げた食堂が多いです。各食堂は間口、奥行きとも56メートルの小さなものですが、店の前の路上を占有してテーブルやイスを並べています。店先に大きな台があって、その上に四角いステンレスの大皿が20ほど。青菜、白菜、豆類、もやし、じゃがいも、たけのこ、豆腐。ぶつ切りの焼き魚、挽き肉の野菜詰め、鶏肉のカレー煮、牛肉の細切れ。赤いソーセージ、揚げ春巻きベトナムフードがいっぱい並んでいます。店の女の子が、既にご飯を盛った皿に客が指差すあれこれを載せてくれます。最後に「汁!」と言って、適当な料理の汁をかけてもらうのです。これをプラスチックテーブルに運び、風呂場イスに腰かけて、かっこむわけです。朝早く行きますと総出で仕込みをしています。料理の置き台や大皿はきれいに拭かれ、食べ散らかしやら塵紙やらが落っこっていた店先は掃除が行き届いています。そして料理もおいしいことはたいへんおいしい。しかし困ったことにどの食堂のどの盛り皿も大よそ同じような味付けなのです。いいあんばいの塩かげんで、ちょっとヌオックマム(日本なら醤油に相当する当地の調味料)のにおいがして

 

27)ハンボン(綿)通り  Hàng Bông 

長さ932mで、旧市街でも最も長い通りの一つです。17世紀から18世紀にかけてたいへん賑やかな通りで、クアンチュン(光中)帝が中国の大使を迎えた時など、ここへ案内したそうです。20世紀初めからは長く綿製品が扱われ、毛布、枕、クッションを商う中心となりました。しかし、今では華やかなな洋装ファッションやガラスや鏡を貼ったワードローブの店に取って代わられました。また、旗や扇やアームバンドを売る店もあり、サッカーシーズンともなるとこれらを買い求める若者でごった返します。

 

28)ルオン・ヴァン・カン通り  Lương Văn Can 

長さ800mのこの通りはハンダオ通りと並行して走っています。今やこの通りは子供のおもちゃ屋が並び、ベトナムや中国のカラフルなおもちゃはもちろん、レゴやロボットやぬいぐるみが目を引きます。世界こどもの日(61日)、中秋節、クリスマスなどには両親に手をひかれた子供たちがごった返し、いつも陽気な喧騒に溢れています。また、アオザイ専門店も多く、どれもが「アンチャック」「フックチャック」「ビンチャック」「ドンチャック」など、屋号に「チャック」という名前が付いています。というのも、店のオーナーは以前のハタイ省(今はハノイの一部)のチャックサーから移り住んできた人たちだからです。

通りの名前にもなっているルオン・ヴァン・カンはドンキン・ギアトゥック(東京義塾)の創立者で、フランス植民地主義者に反対する強烈な宣伝活動を行った人です。義塾では国民への教育を高め、知識を広めようと、改革的政治や新しい思考方法を求める多くの本を印刷しました。しかし、わずか9か月で閉鎖されてしまいました。1908年ルオン・ヴァン・カンは捕らえられ、コンダオ島に流されました。さらに1913年にはカンボジア、プノンペンに送られ、1921年にようやく解放されました。1927年ハンダオ通り4番地で亡くなりました。

 

29)ハンティエック(錫)通り  Hàng Thiếc 

ハンティエック通りは長さおよそ140メートル、古い建築様式の面影をとどめています。かなり狭いので、通りを広げるために移設された民家もあります。ハンティエック通りはハノイ西部のフートゥー村から来た錫職人の街です。彼らは錫製のランプ、ろうそく立て、香炉、急須、盆、茶筒などを専門にしていましたが、錫細工がはやらなくなると、鉄器も扱うようになりました。ハンティエック通りは伝統技能を保持している数少ない通りの一つで、今日でもステンレススチールや鉄製の商品を作っています。家の前には様々な商品がぶら下がっていて、鉄を切る機械やたたいて仕上げるハンマーの音が絶え間なく聞こえます

 

30)ホアタン祠  Đền  Hỏa Thần 

ホアタン(火神)祠はハンディエウ通り30番地にあります。昔のハノイの家は藁葺きだったため、防火が大きな関心事でした。そのため、1838年のミンマン(明命)帝の時代に、火の神様の祠堂がこのハンディエウ通りに建てられました。というのも、ディエウとはキセルのことで、タバコが火の元という場合が多かったのです。祠堂には火災が起こった時の警報用に大きな鐘が備わっています。

 

31)ホンハー劇場  Rạp Hồng Hà 

フランス植民地時代、ドゥオンタイン通り51番地にオリンピア映画館がありました。抗仏戦争に際してはこの劇場もベトナム軍の拠点として使われ、フランス軍の激しい攻撃にさらされました。しかし、1954年、ディエンビエンフーの戦いでフランスに勝利して以降、ここは劇場として使われています。さらに後になって、専らベトナム伝統歌劇のトゥオンを上演する劇場として改修されました。幅約8m、高さ役4.5mで、393席あります。トゥオンは中国歌劇の影響を受けた古代の様式を受け継ぎながら、ソンホン(紅河)デルタで発達した儀式的な民謡や舞踊をもベースにしています。因みに劇場の名前ホンハーは紅河(漢字読み・コウガ)をベトナム語読みにしたものです。