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 エリア1  Khu 1 

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1)ドンキン・ギアトゥック(東京義塾)広場  Quảng trưởng Đông Kinh Nghĩa Thực 

ホアンキエム湖の北のレ・タイ・ト、ハンガイ、ハンダオ、カウゴー、ディン・ティエン・ホアンの各通りが放射状に散っていくその中心に位置する広場です。フランス植民時代は奴隷広場と呼ばれていました。中央に噴水がありますが、かつてはコンクリート製の基礎が円く階段状に積まれ、その上に装飾ガラスを施した大きな時計が置かれていました。1945年に首都が解放されてから噴水になったものです。現在、ここは文化・芸能のイベントに使われています。また、広場の一角にバス停留所があり、ハノイ中心部を1時間ほどで軽く一周するバスが発着しますから、これに乗るのも一興でしょう。この広場は、今から100年以上も前、ハンダオ通りを少し北へ行ったところにあった東京義塾という学校に因んで名付けられたものです。その頃、ベトナムはフランス植民地体制の下で圧政と搾取に苦しんでいて、独立を目指す運動が各地で繰り広げられていました。一方、当時の日本は明治維新を達成し、清国、ロシアに勝利したばかりで、その日本から新しい思想を移入しながらベトナムの近代化を達成しようとしました。

その中の一人、ファン・チュウ・チン(潘周楨)は1906年に日本に渡り、日本の近代的教育に感銘を受け、ベトナムの独立には人材育成が急務であると痛感しました。ベトナム帰国後、1907年、ルオン・バン・カンらの知識人を動かし、有志の寄付を募って近代精神を学びたい者に無料で授業を受けさせました。最盛期には700人もの学生が学んでいました。東京義塾では国学、自然科学、政治経済などの授業が漢文、フランス語、ベトナム語で行われました。さらに、教科書を作ったり、ヨーロッパの近代思想家の著作を翻訳したり、新聞を発行したりするなど、ベトナム人の自覚を高めました。その影響はハノイ近郊にまで広まり、梅林義塾、玉川義塾など同様な趣旨の学校が生まれました。東京義塾は非合法的な活動を避けながら、独立を目指す運動であったため、フランス植民地政府も当初は静観していましたが、次第にその影響力が増大するのを恐れ、1908年、わずか9か足らずで閉鎖されてしまいました、封建道徳と儒教的習慣を批判し、産業や資本制経済を発展させるよう若者に奨励したことなど、ベトナム近代史に深い影響を及ぼしました。

東京義塾を通じ、「自由」「民主主義」「権利」「社会」「哲学」などの和製漢語がベトナム語の中に取り入れられたことも特筆されます。なお、「東京」はトウキョウではなく、「ドンキン」と読みます。これはフランス植民地時代に呼称されたベトナム南部の「コーチシナ」、中部の「アンナン」と並び、ベトナム北部地方を意味します。

 

2)ハンバック(銀)通り  Hàng Bạc 

ハンバック通りは13世紀からあるハノイで最も古い通りの一つで、現在もその名の示す商売が行われています。かつては銀貨作りや宝石細工、それに両替が行われていました。銀細工で有名なハイズオン省チャウケー村から来た人々は銀鋳造技術と両替サービスをハノイに持ち込みました。古文書によると「チャウケー村出身で、16世紀のレ・タイン・トン王の大臣であったリュウ・スアン・ティンが現在のハンバック通り58番地に銀貨鋳造の鍛冶場を作ることを許された。ティンは家族と村人を連れてタンロンに上り、銀鋳造組合を作った。」とあります。19世紀グエン朝初期のころ、ここは閉鎖され、朝廷はフエにある鍛冶場に銀貨造りを任せましたが、銀貨両替サービスはハンバックに残されました。フランスがハノイを占領してから、この通りは「両替通り」と呼ばれるようになりました。

ハノイ近郊のディンコン村からは金銀のリング、ネックレス、ブレスレットなどを作る宝石細工師が来ました。一方、タイビン省ドンサム村の職人たちは箱、盆、鉢、皿などの銀製容器を専門に扱っていました。初めのうちは、それらを村で作ってはハノイ、ハイフォン、ナムディン、タインホアなどに運び、売っていましたが、次第にここに移り住むようになりました。この仕事は19世紀にフエが首都になって以降、寂れてしまい、両替商へと転業しなければなりませんでした。しかし、次第に宝石細工などの伝統工芸は復興し、今日ハンバック通りは金銀や宝石の装飾品を売る店が賑わっています。

 

3)キムガン(金銀)亭  Đình Kim Ngân 

ハンバック通り4244番地にあり、銀細工師の先祖が祀られています。初めは鋳造技術を教える場として、あるいは祭祀・宗教行事の場として使われました。また、抗仏戦争の時代は軍事教練の場ともなりました。その後、2009年には総勢83人もの家族が住んでいたこともあります。2010年のタンロン・ハノイ建都1000年祭に合わせて改修され、可能な限り元の姿に復元されました。大工や宝石細工師によって極めて精巧な彫刻が施されています。現在、毎週何曜日かの夜、伝統室内楽カーチューの演奏を楽しむことができます。

 

4)チュオンヴァン(金鐘)劇場  Rạp Chuông Vàng

ハンバック通り72番地のチュオンヴァン劇場は、フランス植民地時代にタンロン劇場として建てられたもので、伝統的なトウォンやチェオの歌劇が演じられていました。1925年ごろ、カイルオン音楽で有名になり、カイルオン劇場と名前を変えました。今日ではカイルオン歌劇場として土曜日と日曜日の夜、民族的あるいは歴史的なオペラが演じられ、内外のお客様を楽しませています。しかし、かつてはフランスと戦うハノイ防衛部隊の指揮本部が置かれていたことがあり、「決死で戦い、祖国を生かす」との誓いの碑が掲げられています。カイルオンは、ベトナム南部が発祥で、1920年代にフランスのコメディの影響を受けて生まれた舞台芸能です。歌、踊り、音楽がミックスされた現代劇ですが、元になっているのは故郷を懐かしむベトナムの伝統歌で、ベトナム人の琴線を震わせるのだそうです。

 

5)ハンダオ(桃)通り  Hàng Đào 

赤やピンクの染め物が多かったのが通りの名前の由来です。ホアンキエム湖からまっすぐ北へ向かう通りです。旧市街で最も賑やかな通りの一つで、車も多いので、2006年、ホアンキエム地区の人民委員会は、金曜日、土曜日、日曜日にここを歩行者天国としました。今や、手工芸品を売るだけではない新しい魅力も発散しています。ここはもともと絹織物屋の通りでした。と言うのも、ソンホン(紅河)の岸辺には桑の木が植わっており、養蚕業が盛んだったためです。以前は月2回は絹市が立ち、道の両側で絹の売り買いが行われていました。今はカラフルな衣服の店が多く、子供のものから大人のものまで、女性用も男性用も揃っています。この通りには伝統的な家屋もあるし、20世紀初めごろのフランス的なものもあります。ハンダオ通り10番地はかつてのドンキン・ギアトゥック(東京義塾)があった場所です。

 

6)ドンラック(同楽)亭  Đình Đồng Lạc 

ハンダオ通り38番地にあります。古文書によると、この亭はハノイの南、西、東の守護様と白馬神を礼拝するために造られましたが、長年の戦争や自然の作用によってひどく傷んでしまいました。1941年、ある家族が2階建ての商店に改装し、1956年には百貨店として使われるようになりました。2000年にハノイ市とフランス・トゥルーズ市が共同して現在の亭に改装しました。入口の石碑に亭の謂れが記されています。ここは今、ハノイ旧市街管理委員会の建物になっていて、一部が伝統的な絹織り物を展示するスペースとして作り替えられました。中へ入ると、車が行き交うハンダオ通りの騒音が掻き消え、お茶をいただきながらゆったりとかつてのハノイを偲ぶことができます。

 

7)ハンガン(水平)通り  Hàng Ngang 

かつては中国・明朝時代に主に広東から渡って来た華僑がまとまって住んでいました。ここでは裕福な客層を相手に絹織物の商いが行われており、光沢のある金襴など最高級の品物ばかりが扱われていました。防犯のため通りの両側に門を作り、夜間は閉じていました。通りの名前の由来については明らかでありません。1946年から1947年にかけて激烈な戦いがこのあたりで繰り広げられましたが、多くの華僑が住んでいたため、フランス軍もこの通りの家々を破壊しませんでした。ハンガン通り48番地は、チン・フック・ロイという華僑商人の住居でしたが、賑やかな商店街にあって人目に目立たず、裏口に抜け道もあり、ベトミン(ベトナム独立同盟)の集会所として使われました。19458月革命後の初期の時代にホーチミン主席がここで独立宣言を執筆しました。194592日、バーディン広場で読み上げられた独立宣言の一部「独立と自由ほど尊いものはない」との言葉は、私たちに今なお燦然たる光を放っています。現在、この家は記念館として残されています。

 

8)マーマイ通り87番地の伝統家屋  Nhà cổ 87 Mã Mây 

マーマイ通り87番地の民家は19世紀後期の伝統的な町家を復元した古典的な一例です。2004年には国の重要建造物に指定されました。面積は157.6㎡、長さは28mです。間口は5mですが、裏口は6mになっています。後ろが広くなっているのは家主に幸福と繁栄をもたらすためと考えられているからです。ハノイの伝統家屋と同じく、中庭によって3つの区画に分けられています。最初の区画は1階が商店として使われ、2階は応接間。先祖を祀る祭壇も設けられています。二番目は1階が使用人部屋兼商品倉庫で、2階が主人の寝室です。主人はここでお茶を飲んだり、将棋をしたりします。家の正面は、屋根が母屋へ片流れに差しかけたられた造りになっています。一方、裏側は薬草を乾燥させる空間です。更に、三番目はトイレと倉庫です。19世紀に建てられた住宅兼商店の様式として典型的な間取りです。間口は通りに面し、商売に好都合です。木枠の窓は当時の独特な建築様式です。いくつかに仕切られた空間はそれぞれ異なる機能を持ち、中庭から新鮮な空気と自然光を取り入れています。

 

9)カフェ・ラム  Cà phê Lâm 

グエン・ヒウ・フアン通り60番地にあるカフェです。たいへん古く、素朴な構えですが、1950年から1970年ごろにかけて制作されたいろいろなジャンルの絵が壁にかけてあります。それらはグエンサン、ヴァンカオ、ブイ・スワン・ファイら有名なベトナム人画家によるものです。店のオーナーによると、カフェ・ラムは1950年にホアンキエム湖あたりをシクロで回ってはコーヒーを売っていたのが始まりだそうです。客はだいたい近くの会社や工場の従業員でした。1950年代半ば、ハンボイ通りにカフェをオープンしましたが、たちまちインテリや学生たちのたまり場となっていったそうです。そこで次にグエン・ヒウ・フアン通りに新しい家を買い、次のカフェを開きました。1960年から1980年にかけては多くの有名な画家たちが集まりました。ここのコーヒーはオーナー自らの手で選んだ豆を用いています。いろいろなタイプに詳しい名人がたてたコーヒーですから、ほど良い酸味と甘みと苦みのコンビネーションは天下一品です。