今夜すべてのビヤホイで

 

きつかった一日の仕事を終えて帰路につきます。そして夫なり父親なりとしての務めが待っている我が家へ戻るまでのほんのひと時、同僚とで良し、友人とで良し、一人だけだってこれもまた良し。そのひと時、ちょいと一杯の楽しみは私、分からぬわけがありません。新宿ハモニカ横丁は昭和のいい雰囲気でした。新しくなる前の井の頭線渋谷駅ガード下も落ち着けましたねえ。

 

これはハノイの諸君だってまったく同じです。大通りから一本入った横丁の角々にビアホイと呼ばれる飲み屋があります。まあ飲み屋といったってガラガラっと戸を開けて入るような店じゃあない。ビアガーデン、屋台、食堂を足して3で割ったような店ですが、これが原色系プラスチックテーブル+風呂イス(のような低いイス)を店内ばかりか青天井の歩道まで、正に車道へこぼれんばかりに展開しているのです。ビアホイでのしゃべりまくりは男たちの大きな楽しみなのでしょう。

今となっては大昔、かつての東ベルリンに半年ほど滞在したことがあります。道路はまっすぐで直角、建物も四角四面、政治スローガンの看板こそあれカラフルな商業広告などはなく、歩く人も取り澄ましていて、どこかきっちり。曇った日などはやけに暗く、気持ちもくすんでしまいそうでした。で、休みになると、ポイント・チャーリーといういかにもアメリカ人がつけそうな名前の検問所を通って西ベルリンに逃れるのです。そこはこぎれいなショーウィンドーの店先を着飾った紳士淑女が腕を組んで歩いていく一方、青年男女がワーキャー騒いでいたり、酔っ払いがクダを巻いていたり、壁にべたべた貼られたビラが半ばはがれて風にあおられていたり。何も汚いのがいいと言っているわけではありませんが、猥雑な人間世界に戻った思いでほっとしました。ベトナムは世界でも数少ない社会主義国の一つ。でも南国らしく、大らかで明るくて…。堅苦しさを感じないという点では、西ベルリンとどこも違わない!?

さて、そのビアホイ。第一にはビアガーデンといっていいでしょう。店の奥に縦横70センチ、高さ1メートルほどのブリキで囲ったビア樽格納箱があって、そこからプラスチックホースがにょろにょろ。風呂イスに座った店員がトレーに20個ほど並べたグラスにジョジョジョジョと流し込んでいきます。そうですね、植木鉢に水をやる感じ。日本だったら大変、泡ばっかりになるでしょう。しかし、こちらのビールはそれでちょうどいいぐらいの泡立ちにおさまるのです。アルコールも12%低いのではないでしょうか。ちょっと水っぽいですが、ビールは冷えてさえいればよろしい。時にはペットボトルどころか灯油缶を持って買いに来る人がいます。子供のころ、醤油の量り売りはあったが、生ビールの量り売りというのは知らなかった。

ビアホイのいいところは品揃えの多さにもあります。メニューにはスープ、豆、野菜、サラダ、鶏、鴨、海魚、川魚、イカ、ウナギ、貝、エビ、カニ、豚、牛、とここらまではいいとして、ヤギ、蛙、ヘビ、ウサギ、針ネズミ、鹿、イノシシ、亀…。ホントかね?? この店にないのは犬肉ぐらいか?これらの揚げたの、炒めたの、茹でたの、焼いたの。全部で200品目以上。どうです!信じられます?常時これだけ揃うわけではないでしょうが、鳥貴族や養老乃瀧なんか全然メじゃない。中国人は「空飛ぶものは飛行機以外、四つ足ならばテーブル以外」何でも食べると言われますが、ベトナムの皆さんだってどうしてどうして。

イスに座ると、ピーナツのお通しを持って注文取りがやってきます。私なんかは面倒くさがりの臆病者ですから、いつも青菜炒めと揚げ魚と焼きそばあたりで変わり映えはいたしません。見ておりますと、皆さんの食べること食べること。私は年相応に23品も頼めば腹いっぱいですが、こちらの人は体格の割には大食漢ばっかり。飲むにつれ食うにつれメーターが上がってまいりますと…大声の、身振り手振りも加わって、騒然というか、雑然というか、その雰囲気たるや馬券売り場というか幼稚園の昼休みというか。前の通りはバイクのベーベーバタバタ、横や後ろは喋りまくりと大笑いの喧騒。

 

生ビール1杯10,000ドン(約50円)。数杯飲んでうまいものを食って、友人としゃべって、そして明日への英気を養うのです。ちなみにビアホイの「ビア」はビールでいいとして、「ホイ」は蒸気とか空気のほかに、香り、バイタリティなんて言う意味もありますから、そこらへんを意図してのネーミングかどうか。10数年前に亡くなった奇才、中島らもの作品に「今夜すべてのバーで」という魅力的な短編がありますが、ハノイでは今夜すべてのビアホイでこのような光景が見られるのです。