文廟の周辺散歩

 

ザム(監)公園       地図 ① 

文廟周辺には歴史的に興味深いスポットがいくつもあります。正面入り口を出て右に曲がり、レンガ通りを進んでください。ほんの少し先に金属製の門があります。ここがザム公園への入り口です。入場券はいりません。公園の中には反り返った二層の屋根が特徴的な八角楼が建っています。草花や木々の間をレンガ敷の歩道が伸びています。二つの池があります。一つには草木の茂った風景的な岩山がそびえていますし、もう一つにはごつごつしたオブジェ風の石板が重なっています。喧噪の都心にありながら、緑豊かなゆったり休める場所となっています。

 

ヴァン(文)湖       地図 ② 

文廟の前の通りを渡った向こう側に周囲200㍍ほどの池があります。かつては大きな湖でした。ヴァン湖です。湖に浮かぶ島もかなり大きなものでした。島には1865年に建てられた石碑があり、この湖とファン・トゥイ楼について記されています。かつて儒学者たちが詩を詠んでいたこの建物はもうありません。20087月、この湖を清掃して多くのコイが放たれました。例年、市民は旧歴大晦日に魚を放します。また、台所の神様を持ってきては玉帝(道教の最高神)に一家の出来事を報告します。

 

 

ハンチャオ(おかゆ)通り       地図 ③ 

元の通りを渡り、文廟に戻りましょう。ヴァン湖を背にして左に曲がります。文廟入口両側の石碑を保護している灰色の祠を通り過ぎます。ここで馬に乗った人は降りなければなりません。たとえ国王であっても乗馬のまま文廟に入ることは許されませんでした。クォック・トゥ・ザム(国子監)通りとトン・ドゥク・タン(孫徳勝)通りの角を右に曲がります。右手がザム公園です。少し進んだ先の向かい左手にハンチャオ通りがあります。ハノイの古い市街の多くは、そこで営まれた商売にちなんだ名前がつけられています。中世のころ、学者たちがおかゆを食べにこの通りに集まりました。それでハンチャオ(おかゆ)通りとなったというわけです。現在、この通りは金槌やねじ回しなどの大工道具、モーターなどの電動工具、それに溶接機などの工作機械の商店が軒を連ねています。しかし、古老に尋ねると、確かに昔はおかゆ店が立ち並んでいたそうです。  

トン・ドゥク・タン通りをさらに進み、グエン・タイ・ホック(阮太学)通りとの角で文廟側の敷地が小さく三角に仕切られています。現在では交通安全のため、取り払われてしまいましたが、ここには花、食べ物、線香などが供えられていたそうです。それには二つの話があります。一つは、一人の乙女が報われぬ恋を嘆いて後ろの木で首をつったという話で、若者たちが恋の成就を願って供え物を置いていったのです。もう一つは、昔ここに家族に看取られずに亡くなった人たちのための小さな祠があり、その人たちの死後の幸福を祈ったそうです。

 

 

ベトナム美術館       地図 ④ 

文廟の塀に沿って更に歩くと、グエン・タイ・ホック通りとバン・ミェウ(文廟)通りの向かいにベトナム美術館があります。この建物は1930年代にフランス行政府によって建てられました。初めはハノイに留学した植民地支配者の娘たちが住んでいました。カトリック教会の寄宿舎で「ジャンヌダルクの家族」と呼ばれ、修道女たちが経営していました。次にフランス情報省の事務所となり、1954年にはベトナム停戦監視委員会の司令部となりました。1962年、ベトナム文化省はヨーロッパ調の建築をベトナム風に改修しました。建物外周は東洋的な装飾を施してありますが、内装には洋風の要素が残されています。1966626日、ベトナム美術館として正式に落成しました。古代チャンパの彫刻から現代アートに至るまで数多くのコレクションが収蔵されています。庭にはベトナム最大の彫刻の複製が置かれています。これはザム寺の柱と呼ばれ、オリジナルは1086年、リ(李)朝時代に建てられたバクニン(北寧)省クエボのザム寺にあります。高さ約4メートルで基部は一辺約2メートルの四角柱、上部は円柱で力強い2匹の竜が彫られています。この彫刻はリ朝期傑作の美を表現しています。

 

ティエン・フック(仙福)寺または

バ・ナイン寺(大豆お婆さんの寺)       地図 ⑤ 

ベトナム美術館からグエン・タイ・ホック通りを渡り、バン・ミェウ通りの左側を歩くと、その27番地にティエン・フック寺またはバ・ナイン寺の二つの名前で知られる寺があります。バン・ミェウ通りとグエン・クエン(阮勧)通りの角ですが、正門はグエン・クエン通りの方です。この寺は仏様だけでなく、国子監の学生たちに豆腐や豆乳を売っていた老婆も祀っています。このお婆さんは貯めたお金で近所の貧しい人たちを助けました。言い伝えによると、寺は15世紀にお婆さんの露店があったところに建てられたそうです。何度か建て替えがありましたが、最近では2010年に行われました。仏像は中央祭壇に置かれ、その左に端が花模様に彫られた暗灰色の石板があります。この石板こそ豆腐や豆乳を並べたところだということです。お婆さんは石板の上に置かれた台に座っています。

 

 

ゴック・ホ(玉壺)寺またはバ・ゴ寺(ゴお婆さんの寺)       地図 ⑥ 

ティエン・フック寺正門を左に曲がり、グエン・クエン通りを進みます。この通りは19世紀の詩人、教師でもあった有名な儒学者にちなんで名づけられました。バ・ゴ寺はすぐ近くです。この寺は1993年、国の史跡に指定されました。午前7時半から11時までと午後1時半から5時までが開門時間です。入る時は鐘を鳴らしてください。1128年、ここに美しい泉が発見され、その直後に寺が建立されました。門の左側、小さくくぼんだ一角に井戸があります。この井戸は常に清冽で、決して涸れないとされています。

寺は三関門、鐘楼、中庭、前の正殿と後宮からなっています。鐘は1887年に鋳造されました。中庭には樹木が茂り、美しい花々が咲き、いくつかの小さな池があります。35の仏像と3400年前の石碑が安置されています。レ・タイン・トン(黎聖宗)王と最初に改修が行われた時の献金者であるゴお婆さんの像もあります。レ・タイン・トン王は文廟の大成門を建造し、1484年には博士号取得者を記した最初の石碑を建てた王です。また、蒙古の元軍を打ち破った13世紀の英雄としても有名です。後宮は観音に捧げられています。寺の最後の補修は1934年に行われました。

 

タンロン(昇竜)医廟       地図 ⑦

バ・ゴ寺を出て、左へと探訪を続けましょう。次の最初の道を右に曲がります。グエン・クエン通り63B番地のゴ・シ・リエン(呉士連)通りです。小さな店が立ち並び、昔ながらの露天市もあります。左側最初の細い道がゴ・ゴ・シ・リエン小路です。この道から市場を進むと中ほどがイ・ミェウ(医廟)通りです。タンロン医廟はこの道の左側、9A番地にあります。入口アーチに漢字で「醫廟」と書かれています。

この廟は僧侶のトゥエ・ティン(慧靖)師、ハイ・トゥオン・ラン・オン(海上懶翁)別名レ・ヒュー・チャック(黎有)師及びベトナム伝統医術の医師たちに因んで建てられました。ティン師は文廟の優秀な学生で、22歳の時に科挙に合格しましたが、官吏の道を選ばず、仏僧となって医術を学びました。死ぬまでに74の寺を建て、そこで病人を治療しました。また、医術に関する書物も著しましたが、そこには580種のベトナム伝統薬、3800種以上の処方及び184種の病気に対する治療方法が書かれてあります。ティン師は伝統医術の聖人として尊敬されています。18世紀にはハイ・トゥオン・ラン・オン師が医業を引き継ぎましたが、この人も305種の薬と、2800種以上の処方を発見しました。その業績は66冊の本に記されています。

この廟は1834年に大規模な改修が行われました。内部は竜や花などの漆塗りの彫り物で飾られ、19世紀の芸術を示しています。また、医師たちの業績を称賛する漆塗りの板も飾られています。その奥にある更に大きな祭壇は伝統医学の3人の創始者、フック・ヒ(伏羲)、タン・ノン(神農)、ホアン・デ(黄帝)に捧げられたものです。フック・ヒは易経の八卦を発展させました。タン・ノンは農耕の聖人で、毒草を識別し、野菜や薬草を耕作するよう人々に説きました。ホアン・デ(古代中国の五帝の一人)はおよそ紀元前2600年に世界最古の医書を著しました。左右の小さな祭壇はすべての伝統医に捧げるものです。1953年に再改修が行われ、ベトナム医薬協会の本部事務所になっています。毎年、陰暦115日、ベトナム伝統医学を祝って祭礼が行われます。

 

 

フォー・ザック(普覚)寺       地図 ⑧

 

ゴ・シ・リエン通りが終わるところにフォー・ザック寺があります。外壁はほかの寺のように滑らかで色鮮やかだったり、木の扉がついていたりはしません。外壁は粗い石積みの岩山のようですし、門は竹です。門の両側には神話の動物像が置かれています。身体は白の陶製で、目にはガラスがはめられています。ここの歴史もまた変わっていて、16世紀から17世紀にかけてレ(黎)やチン(鄭)の時代の王たちが闘象を訓練していたのです。今では仏陀、観音及び卓越した象使いのファン・カイン・ディエップ(潘景諜)が祀られています。この人は王城や地域住民に大きな被害を及ぼしていた象をおとなしくすることができたので、官吏に登用されました。彼はその栄誉を受けましたが、その後、僧侶になってしまいました。1770年に建てられた石碑はその功績を称えています。

寺の中へ入ると左側に象使いが乗った巨大な象の像を見ることができます。中庭には虎や馬の像が置かれています。右側は観音像です。中庭を横切り、左手の小道を進むと正殿の入り口です。中には仏像、石碑、銅鐘、彫り物など3400年前の品々が保存されています。拝殿はたいへん広く、奥には大仏が見下ろしています。中央祭壇はこの寺の創始者である仏僧に捧げらたものです。正殿の表側はすべて開閉扉となっており、花鳥の彫り物が施されています。この寺を出て右に進み、ゴ・シ・リエン通りを右に曲がると、文廟とヴァン湖のあるクォック・トゥ・ザム(国子監)通りです。

 

 

ビック・カウ・ダオ・クアン(碧溝道舘)       地図 ⑨ 

 

クォック・トゥ・ザム通りを西に向かい、トン・ドゥク・タン通りを渡るとそこはカット・リン通りです。この通りはシンク、トイレ、バスタブなど衛生器具の店が立ち並んでいます。その中ほど、通り右側の14番地が碧溝道館です。ここは15世紀以来の道教寺院です。午前7時から11時までと午後2時から5時までが開門時間です。この寺は文廟の一部として建てられました。学生たちの区域もあって、文廟の講義を聞くために集まっていました。ここにトゥ・ウエンの家があったと考えられています。トゥ・ウエンは科挙に合格し、官吏の資格を得た学者ですが、有名な詩人でもあり、また、理想的な儒教指導者とされています。

言い伝えによると、一人の若者、トゥ・ウエンが美しい妖精に恋をしました。ある老人が絵を売りに来ましたが、そのうちの一枚は確かにトゥ・ウエンが見た妖精の絵だったのです。彼はその絵を買って、家に持ち帰りました。毎日その絵を眺めては食べ物を供えていました。ある日、絵の中の女が目を開いて、飛び出してきました。妖精の名前はザン・キエウといいました。二人は結婚しましたが、トゥ・ウエンは勉強のことはすっかり忘れ、いつもキエウと一緒でした。キエウはウエンが勉強しないことを責めましたが、酒ばかり飲むようになったので、とうとう絵の中に戻っていってしまいました。そこでトゥ・ウエンは勉強を続けることを約束し、酒をやめたところ、キエウはまた彼のところに帰ってきたのです。やがてウエンは科挙に合格し、男の子が生まれました。キエウがこの世を去るとき、ウエンの手を取り、紫金山へと連れ立っていきました。そこには不死の者としてウエンの名前も加えられたということです。

寺の中庭には果物や花の樹木が生い茂っています。池には伝統的な岩山があり、その隙間には盆栽や動物や人物が置かれています。小さな方の池には魚や亀が飼われています。寺の屋根には一対の竜が飾られ、その中央に日輪があります。

 

また、左側の壁にはこの寺の創建当時の様子が描かれていますが、この絵から寺はかなり縮小し、寺の前にあった大きな池も消えてしまったことが分かります。その池は形が鳳凰の羽のようだったことから鳳凰池と呼ばれていました。今では二つの小さな水溜りが残っているだけですが、黄金の亀の目を表しているそうです。寺はかつて黄金の亀の形をした土地に建てられたと言われています。

寺に入って最初の部屋にはいくつかの祭壇があります。祭壇の両脇にはビロード製の紫色の大きな日傘が立てられ、金糸で縫った竜が描かれています。二基の中央祭壇は供え物を置くためです。次の部屋の最初の祭壇も供え物を置くためです。正面のガラスケースには陶製の三つの肖像が収められていますが、中央はトゥ・ウエン、左はザン・キエウ、そして右は男の子、チャン・ニです。左側の小さな祭壇にはザン・キエウの肖像画が置かれています。右側にも小さな祭壇があり、高い山に渦巻く霧を見つめるチャン・ニの絵があります。中庭の右側は別の建物で、その中には人生の様々な段階を描写した多くの仏像があります。建物の中には集会場として使われる部屋もありますが、常に開いているわけではありません。この寺は文廟からも近く、訪れてみる価値があります。