2. バオアン(報恩)寺跡とホアフォン(和風) 

 

ハノイの人々にとってホアンキエム湖がいかに大切かを理解するためには、既に失われた寺社についても知らなければなりません。中には広い敷地に僧坊、仏塔、集会所までも設けていたものがあります。

バオアン寺もその一つです。この寺は蓮寺、亀寺とも呼ばれています。1840年代初めにハノイのグエン・ダン・ザイ市長の呼びかけで行われた一般からの寄進によって建立されました。ザイ市長はベトナム仏教の敬虔な信者で、押し寄せるフランスの影響からベトナムの伝統を守ろうとしていました。寺は19世紀に建てられた二つの建築物の一つですが、それは1802年にグエン(阮)朝がフエに遷都した後の正にハノイが衰退しようとしている時のものです。もう一つはゴクサン祠です。

36千平米にも及ぶバオアン寺の建築は中国様式を模したものですが、グエン朝の王たちはベトナム中部でも好んでこの様式を用いました。外壁に囲まれた敷地は蓮の花をかたどった八角形です。寺の東側はホン河の土手まで達し、一方、西側はホアンキエム湖に面していました。また、レンガ敷きの中庭が湖岸から太鼓橋まで広がり、太鼓橋からは左右に塔を置いた三棟造りの正門に通じていました。そして数多くの石橋、アーチ、仏塔、尖塔などの間を曲がりくねるようにして、ハスの生い茂る池や小川ができていたのです。30棟以上の小さな家々が軒を連ね、その部屋数は150にも上りました。周りは果樹や色とりどりの花々で溢れていました。また、敷地内には地母神の礼拝所、祈祷書の印刷所や何棟もの僧坊がありました。赤い漆を施し、金で飾り付けられた柱が広間を支え、その中央祭壇には高さ1.5メートル、頭から足まで金箔で覆われた仏像が周囲を支配していました。仏像はハスの花の上に座り、右手の平を膝に置いていました。そして、老若二人の弟子が両脇を守っていました。

このような祭壇を囲むようにして着飾った神々や長老たちの像が200以上も並んでいました。どの像も足元に虎や水牛を従え、中には笏を持ったものもありました。特に印象深いのは木や石に彫られた恐ろしい光景で、罪人たちが邪悪な行為によって地獄の苦しみに遭っています。このためフランスはここを「拷問寺」と呼びました。1884年、あるフランス人技師がネオクラシック様式の近代的ビル建設を含む地域開発計画を作成しました。1886年から1889年にかけて寺は次第に取り壊され、像の多くがフランスに持ち去られました。中でも彫り物を施した極めて貴重な二枚のパネルがハノイの別の寺に運ばれたということですが、今もその所在は分かっていません。1892年、敷地内に郵便局が建てられ、後には現在の政府迎賓館であるトンキン政庁舎なども加えられました。1960年には近代的な郵便局が同じ敷地に再建されました。

今では湖岸の郵便局に相対するホアフォン(和風)塔だけがバオアン寺の一部として残っています。これは寺へ入る門で、記念として残されているのです。建築物としては小さなものです。塔の四面は北(ゴクサン祠の方)を向いた「報恩門」から時計回りに「報福門」「報義門」「報徳門」と書かれ、四季それぞれの順風を祈願しています。石柱の角にはリーと呼ばれる神話上の動物(一角獣)が睨みをきかしています。塔は上部が細く、四面の屋根は半円型で、天空を意味します。二層目のレンガは有名なバッチャン陶器村で生産されたものです。湖岸には、バオアン寺の北にフォザック(普覚)寺がもう一つ建っていました。しかし、これも1880年代に壊されて、市庁舎などフランス植民地政府の建物に替えられてしまいました。この建物は1960年代にハノイ人民委員会の本部となり、現在もそのまま使われています。