Ⅱ. 36通り  36 phố phường

 

1. 住居、商店、祭祀・宗教施設の調和  Hài hòa nhà ở, cửa hàng và cơ sở thông giáo 

旧市街の特徴は、住居、商店、亭、祠堂、寺院などが見事な調和をもって配置されていることです。旧市街のわずか100ヘクタール足らずの区域内に121か所もの亭、寺院があり、しかもその多くは国の史跡に指定されています。ハンドゥオン通り38番地の亭はかつてのドゥックモン村の亭でしたし、ハンホアイ通り54番地のフエンティエン寺はハンホアイ村のお寺でした。ハンダオ通り90番地のホアロック亭は、ハノイの西約60キロのハイズオン省ダンロアン村から来た人たちが建てたものです。ですから、亭はハノイの住民がどの省のどの地方からやって来たのか、その出身地を示しているのです。ハノイの職人や商人たちは行政単位ごとに政治的にだけでなく、社会的、文化的、心理的にもつながっています。同じ村または同じ組合の住民は、村の神様や先祖を祀ろうと寄進します。例えば、ハンバック通りのキムガン亭は銀細工を創始した先祖を礼拝するところですし、イエンタイ通りのトゥーティ亭は刺繍の先祖を祀るためにクアットドン刺繍村の住民が建てたものです。住民同士は単に同業者とか同じ村のご近所という関係だけではなく、都会に移ってからも折につけ故郷を偲ぶ人々の温かい感情が吹きこまれた特別な関係を持っています。家や商店や信仰の場が調和をもって建てられているのは古いハノイの人々の宗教的、文化的生活を示しています。彼らは自然や周囲の環境や精神世界との調和を求めています。旧市街の小さな町家、喧噪の通り、空を隠すほどの豊かな樹木、亭や祠堂の曲線の屋根。これらは旅行者にとってことさら魅力的です。

 

2. 旧市街の建築  Kiến trúc 

かつてはどの通りも同じような造りでした。レンガを敷き詰めた通りを挟んで両側に家が建ち並んでいました。それぞれの通りには同業組合がまとまっており、門で別々に隔てられていました。門は昼間だけ開いていて、夜間は閉められていました。しかし、後になってフランスが道路を建設したため、古いハノイの顔はすっかり変わってしまいました。便利な交通網を整備するため、街は拡大し、互いに繋げられたのです。それまで閉鎖的だった手工業組合は統合され、建築様式も外部の影響を受けるようになりました。フランスがハノイを占領した後、都市計画が変わりました。中でもハノイの場合は変化が大きく、通りはアスファルトに造り替えられました。下水や照明が整備され、交通上の視覚を広げるため、四つ角に立つ家は斜めに削られてしまいました。しかし、ハノイの人々は家を建てたり、修理をする場合、やはり伝統的なスタイルを守りました。殆どの家は木造の平屋建てで、屋根は素焼きのタイルで葺きました。間口は非常に狭く、奥に深い構造でした。36通りは全体的に波打ったような屋根の伝統様式を引継いできており、ヨーロッパ式設計で建てられた「西洋街」とはかなり様相を異にしていました。以前の家の多くは土、木材、竹材で建てられ、屋根は藁葺きでした。それらは何世紀もの間、ベトナムの高温多湿な気候に対してもろかったのです。現在見られる旧市街は19世紀末から20世紀初めに造られました。現存する家は多くは改修後のもので、当初の建築とはまったく違い、完全に残っているものは殆どありません。ただ、レンガ、タイル、セメントなどの新しい家が古い家と同じ敷地に建っている場合があるので、依然として古い建築様式の痕跡も見られます。

 

3. 町家  Nhà ống 

旧市街の家屋は隣り同士がくっついていて、間口が狭く、奥に深く、一つのブロック全部を突き抜けて、裏の通りにまで達している場合さえあります。おそらく、それは次のような事情に由来しているのでしょう。当初、親が広い土地を所有していましたが、子供たちが成長すると、それを小さな敷地に分割したのです。ベトナム人は結婚後も両親と一緒に住む傾向があるからです。大体どの家も同じ造りで、間口は24mですが、奥行きは2040mもあり、時には100m以上にも及びました。通りに面した部屋は店あるいは作業場として使われます。その次がheaven well「天国の井戸」と呼ばれる中庭で、天井がなく、日光が差し込みます。たいてい小さな岩山や盆栽をあしらった池があります。池には金魚を泳がせ、上からは木や花の飾り棚や鳥かごをつるします。その奥は居間や食堂となっていて、更に奥にもいくつかの部屋が続いています。かつては一階だけで、屋根は素焼きタイルで葺かれていました。屋根には装飾的に重なりがあって、先端は空に向かって突き出るように幽雅な曲線を描いている場合が多いです。中には二階建ての家もありましたが、二階は低く、たいてい窓はなく、あったとしても小さいです。それは、封建時代には一般庶民が通りを行く王様の顔を上から見下ろすことができないようにするためです。

20世紀初めから旧市街にも、屋根窓やバルコニーなどヨーロッパ風の要素を取り入れた家が見られるようになり、次第に二階建ても造られるようになりましたが、その場合は一階が店で、二階が住居です。傾斜屋根はタイルで、平屋根はコンクリートです。道路に面していて、小さく低い家が見られれば、それは最も古い様式です。例えば、ハンバック通り47番地、マーマイ通り81番地、ハンブオム通り50番地などがそれです。人口密度が非常に高いため、今日では多くの古い家が、ガラス窓のあるコンクリート屋根の34階建てに改築されてしまいました。昔は23世代の家族が一つの大きな家に共同で住んでいましたが、人口増加と共に町家を別々の家に分けなければならなくなりました。かつてはお年寄りがゆっくりとお茶を飲めた中庭に屋根がかけられ、倉庫や居間になってしまいました。わずかなスペースでも商売や住居に利用しなければならないからです。旧市街の土地代はベトナムで一番高いです。いや、世界で一番かもしれません。しかし、ここに住む人々は屋上や中庭に盆栽を並べたり、バルコニーに植木鉢を飾ったりして、人工の緑を楽しんでいます。旧市街のど真ん中にさえ家庭菜園が残っているのです。

 

4. 主な通りと歴史遺産、祭祀・宗教施設  Hàng chủ yếu và di san lịch sử, cơ sở thông giáo

旧市街を訪れる外国人は一つの通りにずらっと同じ商品が売られていることに驚くでしょう。そんな様子はあまり見たことがありません。しかし、ここでは「商いには商い仲間が必要」というのが伝統です。それでは実際に主な通りや歴史遺産、祭祀・宗教施設を歩いてみましょう。ハンダオ通りからハンザイ通りまでを境に右と左に分け、ハンチン通からハンバイ通りまでを境に上と下に分けて、右下のエリア1から反時計回りにエリア4までとします。ホアンキエム湖に面したドンキン・ギアトゥック(東京義塾)広場から出発しましょう。