行商

 

時告げ鳥とはよく言ったものですね。我家は住宅街のど真ん中ですが、まだ暗いうちの4時には「コケコッコ~」が始まります。極めて正確に朝4時。一羽が鳴き出すと数秒ずつ遅れてあちらからもこちらからも。私は気が小さいものですから、授業をどう展開しようかなどと前の晩に考えていたりすると、その続きを考え出したりして、完全に起こされてしまうこともあります。そして二番手がヒヨドリみたいな鳴き声のやつ。これも夜が白み始めるちょっと前ごろ「ピーヨホイッ、ピーヨホイッ! ピーヨホー、ヒコヒコヒッ!」小鳥の鳴き声と共に朝の生活が始まります。

 

 

更に三番手。6時近くなると家の前を行き来する行商の声が次から次へと聞こえるようになるのです。日本の場合、「さお竹ヤー、さお竹エー」にしても今はまず聞かれない「金魚エー、金魚オー」にしても哀愁とは言わないまでもどこか短調の響きがあります。こちらでもドミソ以外の中途半端な調子で終るのはそれが却って聞く人の気持を引くからでしょう。世界中どの国の行商も、言葉は違っても多分同じような調子でやっているのではないでしょうか。日本の都会では今や行商なんて瀕死の状態になってしまいました。休日のたびに「毎度お騒がせしております。こちらチリ紙交換車です。古新聞、古雑誌などございましたら…」とボリュームを上げているのは行商とは言いませんよね。行商というのは商品をかつぎ、肉声で呼びかけるものですから、その声が届かなくなってしまえば首を絞められたようなものです。日本ではその声がかき消されるほどまわりが騒々しくなったということでしょう。

 

そしてその危機がここハノイでも差し迫っています。今や歩行者はもとより自動車やバスさえも抑えてバイクが我が物顔に走り回っています。私はそのバタバタ音やベーベー音が早晩に行商を押しつぶすのは必至と見ています。同様に問題なのが林立する高層マンション。10階、20階から呼び止めることはできませんし、上からエレベーターで降りていく間に行商人は行ってしまいます。行商人から見ればいつだれが降りてくるのか分からないのに一っ所でじっとしているわけにはいきません。私に録音の機材と技術があれば何とか行商の声を保存しておきたいところ、そうできないのが残念です。せめてこちらの民族学博物館にでも提案します。

 

そこで今回は皆さんにこの愛おしむべき行商体験を実際にやっていただきましょう。朝のことですからたいてい食べ物を売りに来るわけですが、黄色い豆をまぜた甘いもち米とかフォーの生麺とかはちょっとむずかしいので「パン屋」をやってみましょう。おばさんたち、あるいはおねえさんたちは固めのコッペパンを詰めた竹篭を荷台に載せ、自転車をこぎながら「Banh mi nong day!」と呼びかけています(私としては「歌っています」と言いたいところ)。「banh mi(バインミイ)」はパン、「nong(ノン)」は熱い、「day(デーイ)」はここ、という意味ですから全体では「ほかほかパンだよー、いらんかねー」とでもいうニュアンスでしょうか。ベトナム語には母音の上がり下がりに6通りの変化があって、その変化によって意味が違います。これを間違えると全然話が通じません。「Banh mi nong day!」の場合、「banh」は「ええっ!一体どうしたの?」と言うときの「ええっ!」のように中間の音から高い音に一気に上げます。「mi」は「banh」の出だしのバの音を1オクターブ下げて、低いまま長く伸ばします。「nong」は「banh」と同じく中間から一気上げ。「day」は「nong」で上がった調子をそのまま長く伸ばします。「バインミイ、ノンデーイ!」言えましたか? 面白いことにハノイにはハノイ方言があって「n」の音が「l」に変わることがあります。ここでも「ノンデーイ」ではなく「ロンデーイ」となるのです。したがって正調パン屋節としては「バインミイ、ロンデーイ!」であります。さあ、サビをきかせて「バインミイ、ロンデーイ!」哀惜の気持を込めてもう一度「バインミイ、ロンデーイ!」

 

 

banh mi13,000ドン(約15円)。顔なじみになったおねえさんに聞いたところ市内に何か所かある窯元で毎朝70本ほど買い付け、売り歩いているそうです。皆さん、この行商さんたちが消えていく前に是非ハノイにいらっしゃって競演してみてはいかがですか。