初めに
ベトナムの至宝へようこそ。このガイドブックはベトナム最古の大学、文廟を紹介するものです。観光客の皆様のさまざまなニーズにお応えし、時間の許す限り、楽しく効果的な歩き旅のヒントとなるよう企画されました。文廟-国子監(国の子弟のための学校)は国の歴史遺跡として3番目に登録されたもので、ベトナムとその首都ハノイにとって至宝ともいうべき建築史跡の一つです。繁華街の中心にありながら、緑あふれるオアシスとして、いにしえを偲ぶハノイ市民や多くの観光客を招いています。ハノイにゆっくりご滞在のうえ、ここに称えられる多くの学者や詩人へのご理解が深まるよう、本書がそのよすがとなれば幸いです。
孔子、キリスト、マルクス、孫文の共通点は何か。それは4人が共に良き社会を考えたこと。彼らが今も存命で、互いに近かったら、必ずや意気投合したことだろう。 ホー・チ・ミン
1965年、孔子の故郷、中国・曲阜(きょくふ)への途次にて
紹介
文廟-国子監はベトナムの首都ハノイの繁華街にありながら静寂にあふれています。この場所は書物を読もうとする学者が、絵を描こうとする画家が、また1000年に及ぶベトナムの文化と歴史をたどろうとする旅行者が訪れるところです。
市内の他の史跡とは異なり、文廟はベトナムの輝かしい文化的伝統に敬意を表わす場所であり、ハノイ人にとって重要な意味を持っています。なぜなら、文廟は幾多の王朝や思想の変遷に耐え、偉大な学者と高等教育の理想を永くその石碑に伝えているからです。
文廟は、当時も現在も全国の村々に見られる孔子廟と同じく、孔子を祀るため1070年に創立されたと考えられています。1075年には国を統治する王子を教育するため、王族の大学が同じ敷地内に創設されました。その1年後には貴族の子弟にも開放され、「国子監」つまり国の子弟のための学校と命名されました。
その後、グエン(阮)朝が首都と大学をフエに移すまでの700年間、この学校はベトナムで最も偉大な政治家や文学者を輩出しました。その中には、グエン・チャイ(阮廌)やチュー・バン・アン(周文安)など、今日でも国民から敬愛されている人たちがいます。
何世紀にもわたる戦争や社会の変動によって文廟の性格は変化しました。特に19世紀初めには最初の二つの庭とクエ・バン(奎文)閣が増築されました。1947年には五番目の庭に残っていた建物が砲弾によって破壊されました。また近年では何回もの修復工事が行われましたが、最近のものは2003年に完成しました。
現在の文廟は、最古の儒教寺院として紀元前478年に建てられた中国山東省曲阜(きょくふ)の孔子廟に倣ったものです。文廟の五つの庭は自然の五要素-木、火、土、金、水を表しています。文廟は過去の輝かしい学者を祀る寺院です。また900年に及ぶベトナム歴史の宝庫であることから、時折学生たちが訪れては試験合格の幸運を祈っています。
境内を散策すれば、ベトナムの歴史や儒教について知ることができます。ここは教育や文学が何世紀にもわたって展開してきたベトナム文化の特別な場所ですから。
文廟には科挙(高級官僚登用試験)合格者の名前を刻んだ82基の石碑が建てられています。2010年3月、それらはユネスコの世界遺産に登録されました。
起源
学者によっては1156年とするなど、確かな日付については意見の相違がありますが、今日、文廟として知られる史跡が何らかの形で建立されたのは李朝第3代のリ・タイン・トン(李聖宗)王のもと、1070年のことと言われています。
この建物は当初、孔子と周公を祀る寺院でした。周公は紀元前11世紀の周朝武王の弟で、500年後に孔子が発展させた儒教の基を築いた人として知られています。
その名は文字通り「文(文学)」の「廟(寺院)」です。「文」は文字や文学にとどまらず、文化、平和など広い意味があります。周公の追号が「文」であるのも興味深いことです。
文廟が立つ場所は市の南西門のすぐ外側にあり、かつて水田に囲まれた大きな「文湖」の北岸に位置しています。
1076年、李朝リ・ニャン・トン(李仁宗)王の勅命により国子監、つまり国の子弟のための学校がベトナムで最初の大学として同じ敷地内に建てられました。最初の学生は王族関係者だけでしたが、間もなく貴族の子弟も通うようになり、やがて地方試験に合格した者にも門戸が開かれました。これによって教育を通じた社会の流動性が確保され、さまざまな年代の学生たちが孔子の教えに基づく学問や倫理を学んだのです。
1484年、レ・タイン・トン(黎聖宗)王は最も優秀な学者を記念するために、科挙において博士号を取得した者の名前を文廟-国子監の石碑に刻むことにしました。
その一方、入り口付近のマンゴーの木にカラスの大群が留まっていたため、フランス植民地時代には「カラス寺」と呼ばれたこともあります。
① 東西南北を表す4本の柱 ② 文廟門 ③ 入道庭 ④ 奎文閣 ⑤ 賢者庭 ⑥ 国子監
建築デザイン
文廟は中国・曲阜(きょくふ)の孔子廟に倣い、方形が何段も重なったように建てられています。19世紀初め、文廟の庭は三区画から五区画に拡張され、生垣だったそれぞれの仕切りはレンガ壁に作り変えられました。当時はグエン(阮)朝の興隆期に当たり、破壊されていたハノイ城の再建中でした。レンガはその現場から運ばれたものだということです。
それぞれの庭から孔子の祭壇に至るまでの中央通路によって敷地は対称的な二つの部分に分かれています。それぞれの庭から次の庭へは横に並んだ三つの門でつながっており、その一つひとつには知恵の進歩を象徴する名前がつけられています。左右の門柱に漢字で刻まれた二行の対句は、対照的な意味を持ちながら互いに補完し合い、韻を踏んでいます。
対照的な要素がより大きな全体の中でほどよい均衡を保っていること、これが文廟の設計に反映されたテーマです。また、ベトナム人の生活の中で過去も現在も三本の深い流れとなっている儒教、道教、仏教に共通のテーマでもあります。
五という数
「五」は中国の神秘思想の中で最も重要な数の一つで、男性数である奇数として五つの方位(四方と中央)と関連しています。五に分ける考え方は中国哲学、儒教、仏教、東洋医学などいろいろな分野に見られます。例えば五行(木、火、土、金、水)、五臓(肝、心、脾、肺、腎)がそれです。文廟の五つの庭も自然の五行を表しています。儒教における他の「五」には次のようなものがあります。
五倫:君臣、父子、夫婦、長幼、朋友
五常:仁、義、礼、知、信
五句:生、老、病、死、別
五戒:不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒